バラモンは、托鉢で食を得ておられるお釈迦様に、「田を耕して、食を得てはどうか」と問いかけました。それは、「少しは自分で、田を耕す苦労をしてはどうか」という投げかけでした。出家者が人の施しで食べていることに対して、疑問を厳しくぶつけたのです。
農家の人は、荒れ地を耕し、土を柔らかくして、種を蒔きます。そして、種を蒔いた後も、草取りなどの手入れを怠らずに行うことで、豊かな収穫を得ることができます。
バラモンのいう「食」とは、米などの穀物や野菜といった、お腹を満たし、人間の体を維持するために必要なものでした。このバラモンに対し、お釈迦様は、「自分も耕し、食を得ている」とお答えになりました。その「食」とは、人間の心の栄養であり、心を豊かにし、人としての道を歩むためのものです。私たち人間の心は、硬く未熟で、悪ばかり犯し、迷い苦しんでいます。
しかし、その心に「お釈迦様が蒔かれた種」、つまり仏様の信仰を植えて、「お釈迦様の鋤」、つまり仏様の智慧によって解きほぐされた時、種は芽吹き、安らぎへと導かれるのです。それが、心を耕すということです。
精進の先に
しかし、田畑に生えた雑草が何度抜いても生えてくるように、心に芽生える煩悩もきりがありません。その煩悩の草を刈るのが、精進です。
精進することで、身と口と心で犯す悪を制御していきます。
「一度精進したから、もう大丈夫」ということはなく、絶えず精進を続け、悪い行いから離れる努力をし、心を常に清らかに保つことが大切です。
何においても、継続することは簡単なことではありません。それでも、田を耕す牛が後ろへ下がることなく前へ前へと歩み続けるように、困難なことにも逃げ出さずに立ち向かい、善へと一歩一歩進んでいくことが、私たちの歩む仏道なのです。
そして、最後の「実の収穫」こそが、お浄土へ還ることであり、これ以上の喜びはありません。
このように、仏教とは、心を耕し、心を磨くための教えです。心が磨かれた人は、誠実で、思いやりのある、光り輝く存在であり、世界さえも平和にし、人類を安らぎに導ける存在です。自分の心の中にある信を大切にし、日々、自分を磨き、くじけることなく、光り輝く未来に向かって突き進んでいきましょう。
文・日向 うらら
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