皆さんは、指さされた月を見ずに、その指を見るほど、自分は愚かではないと思うことでしょう。しかし、人は、ささいなことにとらわれ、道草を食ってしまうものです。
たとえば、部屋の片づけをしている時には、片づけようとして手にとった漫画をつい読んでしまったり、友だち同士で集まって勉強会をしているはずが、雑談をしたり、噂話をしたりと、何かと道草を食ってしまいます。大人になってからも、演劇を観に行く時に、ファッションばかり気にして、まるで自分が衣服を見せに行くかのような人もいれば、お茶を楽しく頂くための作法であるはずの茶道が、形のみにとらわれると、楽しいどころか、かた苦しいものになってしまうこともあります。
それはまるで、本来の目的である月を見ずに、どうでもよい指を見ているようなものです。
「月を見るように」と言われたら、素直に月を見ればよいだけなのに、多くの人は、ああだこうだと理屈をつけて、ついに、月を見ることなく、指の話ばかりして終わってしまうのです。
目的を見すえて
大切なことに心が定まらず、あちこちに乱れ、まとまりがなかったり、つまらないことにとらわれ、迷ったり、一つのことを思いこんで離れられなくなる、こうした邪な思いを「邪念」といいます。
「念」とは、心の中で様々に働き、よくも悪くも、人をいろいろな姿へと導きます。心に邪念が起こると、心は揺れ動き、「念」が間違った方を向いているため、自分を間違った方へ、間違った方へと向かわせてしまいます。
私たちは、一度きりの人生を無駄に過ごさないように、間違ったものとしないように、正しく歩まなければなりません。そのためには、あちこちをふらふらせず、ああだこうだと文句を言わず、目標や夢に向かって一直線に、思いを定めることが大切です。
この正しい思いのことを、仏教では「正念」といいます。今でも、ここぞという大事な場面を「正念場」というのは、この仏教語から来ています。
正しく思いを定めることができれば、誰に何を言われても、自分の大切なものを見失うことはなく、何にもとらわれず、ただ、まっすぐに、のびのびと歩んでいけます。その先にこそ、光り輝く世界が待っているのです。
文・暁 ひかり
◀️本棚67 1頁
123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142434445464748495051525354555657585960616263646566676869707172737475767778798081828384858687888990919293949596979899100101102103104105106107108109110111112113114115116117118119120121122123124125126127128129130131132133134135136137138139140141142143144145146147148149150151152153154155156157158159160161162163164165166167168169170171172173174175176177178179180181182183184185186187