念仏宗【念佛宗】無量壽寺|まなびの泉

念仏宗の総合案内 サイト更新日2024年10月8日

 

 

とらわれない心
 皆さんは、指さされた月を見ずに、その指を見るほど、自分は愚かではないと思うことでしょう。しかし、人は、ささいなことにとらわれ、道草を食ってしまうものです。
 たとえば、部屋の片づけをしている時には、片づけようとして手にとった漫画をつい読んでしまったり、友だち同士で集まって勉強会をしているはずが、雑談をしたり、噂話をしたりと、何かと道草を食ってしまいます。大人になってからも、演劇を観に行く時に、ファッションばかり気にして、まるで自分が衣服を見せに行くかのような人もいれば、お茶を楽しく頂くための作法であるはずの茶道が、形のみにとらわれると、楽しいどころか、かた苦しいものになってしまうこともあります。
 それはまるで、本来の目的である月を見ずに、どうでもよい指を見ているようなものです。
「月を見るように」と言われたら、素直に月を見ればよいだけなのに、多くの人は、ああだこうだと理屈をつけて、ついに、月を見ることなく、指の話ばかりして終わってしまうのです。
 
 

目的を見すえて

 大切なことに心が定まらず、あちこちに乱れ、まとまりがなかったり、つまらないことにとらわれ、迷ったり、一つのことを思いこんで離れられなくなる、こうした邪な思いを「邪念」といいます。
「念」とは、心の中で様々に働き、よくも悪くも、人をいろいろな姿へと導きます。心に邪念が起こると、心は揺れ動き、「念」が間違った方を向いているため、自分を間違った方へ、間違った方へと向かわせてしまいます。
 私たちは、一度きりの人生を無駄に過ごさないように、間違ったものとしないように、正しく歩まなければなりません。そのためには、あちこちをふらふらせず、ああだこうだと文句を言わず、目標や夢に向かって一直線に、思いを定めることが大切です。
 この正しい思いのことを、仏教では「正念」といいます。今でも、ここぞという大事な場面を「正念場」というのは、この仏教語から来ています。
 正しく思いを定めることができれば、誰に何を言われても、自分の大切なものを見失うことはなく、何にもとらわれず、ただ、まっすぐに、のびのびと歩んでいけます。その先にこそ、光り輝く世界が待っているのです。
 
 
 

文・暁 ひかり

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