「忙しい」という字は、心を意味する「(りっしんべん)」に「亡」と書いて、「心が亡びる」と読むことができます。
長者は、立派な家を建てたいという目の前の欲に気を取られ、お釈迦様の教えを聞こうとしませんでした。それはまさに、忙しさによって、「よい心」が亡び、真に歩むべき道とは何かを見失っている状態です。
自分がいつ死ぬかなど、誰にも分かりません。家を建てていた長者も、これからのぜいたくな暮らしを楽しみにしており、まさか工事中に死んでしまうなど思いもしなかったでしょう。
もしも長者が、お釈迦様の教えを聞く耳を持っていたなら、死後の行き先は変わっていたに違いありません。このように、忙しさは心を亡ぼし、大切なことから目を背けさせるため、信仰の大敵ともいえます。
日々の習慣から
お釈迦様は、長者が死んだ後、
「愚者の日々の行いは、身に憂いを招く。楽しげに悪を行い、自ら重い罰を受ける。悪を行えば、やがて後悔し、涙で顔を濡らすことになる。こうした報いは、皆、宿習による」と説いておられます。
宿習とは、前世から、現在の日々に至るまでの悪い習慣のことです。つまり、日頃、私たちがどのような心で、どのような行いをして過ごしているかが、大切だということです。
私たちも、友だちと遊んだり、携帯電話やゲームに夢中になって、欲望のために過ごす日もあるでしょう。逆に、勉強や部活動、習いごとを頑張る日もあるでしょう。その頑張り自体は、将来につながる大切で素晴らしいことです。
しかし、「自分もいつ死ぬか分からない」と考えれば、日頃から仏様の教えを聴聞することが大切です。忙しいことを言い訳にせず、心を活かす、仏教に触れていきましょう。
文・
清風 りょう
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